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Eri Nakagawa

ほんとうに好きなものってあたりまえすぎてわかんなかったけど、それをすることで本来の自分にかえれるんだね

更新日:2020年6月17日

二十代の頃の私は現代美術の世界で美術をつくる人として生きていきたかった。

こんなの見つけちゃった。



取手リ・サイクリング・アートプロジェクト2002



なので創作活動を第一に、仕事は美術の専門学校の助手として働きその任期が終われば迷いなくバイトをしながら友人たちと家をシェアし、創作活動中心の生活をしていた(活動を反対されていた母からは距離を置いていた)。三十代いろいろ出てきて創作活動がいよいよ限界になってきた頃、当時付き合っていた彼氏に突然メールでふられる。以来音信不通(笑)



すべての迷いを振り切るようにバイト生活から人生初の正社員となった。



正社員となって金銭面が驚くほど安定した。これまでできなかったことをする。ひとつは一人暮らし。駅からはだいぶ離れていたがこじんまりとした日当たりのよい今っぽいワンルームを見つけた。四方八方が窓で囲まれていて明るくて風が抜けて気持ちがいい。それまで不動産屋でバイトをしていた私はいろんな物件を見てきたがこれはまれに出会う物件だと即申し込み、はじめての一人暮らしをスタートさせる。



不動産屋でのバイト先を離れる時、お別れにと頂いたガジュマルの木はこの部屋でメキメキと大きくなり、ひとまわりもふたまわりも大きな鉢に植え替えを要するほど、植物が喜ぶ部屋だった。だからかなぁ、部屋にはいつも花や緑を飾るようになる。私は花屋を見つけるたびに花を買って帰るようになり、水やりやあれこれのお世話が楽しくて、小さなベランダに植えたパクチーは1メートルを超えるほど元気に育った。おかげで布団が干せなくなってしまったが、毎日眺めてはホクホクし料理にも精を出した。植物がいろんな傷を癒してくれた。



植物を育てる楽しさや育てたものを料理し食べる豊さを実感したのはこの時からなのかも知れない。



ただ残念なことに数年も経たずして会社にはいられなくなる。会社でのパワハラとセクハラに同時にあい、家から出られなくなるほど病んでしまう。数年かけて少しずつ回復してきたと思ったら今度は東北の地震、福島の原発事故が起こった(あのとき家のテーブルの上にはおおぶりの桜の枝をたくさん飾っていたっけな)。またおかしくなりそうでこれ以上ここには暮らせないと一旦東京を離れる決心をする。おおきく育てたガジュマル、たいせつに育てたいくつかの植物、すこしづつ整えてきたお気に入りの家具や雑貨も手離した。身がよじれる思いだった。中でも植物は友人にあげたのかすててしまったのか、どのように手元を離れていったかまったく記憶がない。ただ、このさき私は植物を育てることはないだろうと思った。それはしっかりと記憶に残ってる。


それからしばらく植物とは縁遠い生活を送ることになるが、6年目が過ぎ大阪で借りたアパートの生活が整ってきた頃、ニャンコ先生(野良猫)に出会う。出会うというか押しかけられたというか。

お恵みを〜とやってきた



飼うつもりはなかったのだが首のまわりがぐるりと無毛でガリガリにやせ細った病気のニャンコを看病しているうちに情が湧き、友人の助けもあり、居所を神戸に移し(大阪のアパートはペット禁止)ニャンコとの生活をはじめた。ニャンコも私もお互いのもつ言葉を理解しようとすごく観察しあった。次第にコミュニケーションは豊かになり、バラエティに富んだ表現をするニャンコに驚き

顔つきもどんどん変わっていったよ



種を超えたコミュニケーションを楽しんだ、と、いうより今思えば求めていたんだな私。子どもの頃飼っていたさまざまな動物たちとのやりとりや知的な障害のある弟とからだまるごとで遊んだこと、そんな思い出が吹き出した。私の根っこに立ち返るたいせつな時間を過ごした。


これこそまさにうじゃの原点!



気づけばたくさん癒され、かたくこわばった私のこころはすこーしずつひらかれていく。死に直面した友人と猫をきっかけにささやかな時間も過ごせた。何もしなくてもいい。心地よい時間を謳歌ニャン♫とニャンコは言う。おなじいきものとしてそのありかたをニャンコがたくさん教えてくれた。気付けば酷い鬱で倒れることも少なくなっていく。大きな観葉植物をふたつ迎え、部屋にはかかさず花をいけるようになる。


しかしここでまた暗転コロナ騒動が起こる(なんやねん!!)。ダイアモンドプリンセス号から乗客をそのまま降ろしたという報道で政府の対応に疑問が湧く(福島原発事故後の対応と同じだ!計らず無きものとする)。状況はどんどん悪くなるのだが、恐怖を感じているのは私だけのようで町にでてもいつもと同じ風景がひろがる。


イッツ・ア・パラレルワールド!!


そうこうしているうちに過呼吸がでてしまう。自分はこのままおかしくなってしまうのではないかという恐怖にかられ、避難先をあたる。そして岡山入り。前回と違ったことは植物、ニャンコ、いきものすべてを連れて避難できたこと。


避難先では畑をつくらせてもらった。

不揃いの畑、はじめてする畑



畑がしたい、ニャンコをベランダじゃなくて外に出してあげたいと思ってきた(元は野良猫だったからか外が好き)それが、コロナであっけなく叶ってしまった。なかなかの転機だ。落ち込み避難したはずが、土を耕し汗をかき、メキメキと育っていく野菜たちを直近に自らつくった野菜を食べることで私はまた命を輝かせた。ニャンコもすこしずつ範囲をひろげながら外にでる練習をし、さまざまな鳥の声や虫たちに目を輝かせている。



私を置いてくれる宿主さんには感謝してもしきれないな。

置いてもらっている部屋からは山がみえる。今の季節は毎日山霧が発生!


お日様の都合にあわせて生活するということが3ヶ月も経った頃、突然母がFacebookをはじめた。それとと同時に母の知人から(弟のヘルパーさん)、母が育てたという花の写真が私のタイムラインに数枚あがってきた。花の名前をよく知らないのでアレだが大きく毒毒しい立派な母のような花が写っていた(すいません)よくみるとそこは母が住んでいる市営住宅のベランダではなく、敷地内共有の場に植わっている。

「ゲリラ花壇」という言葉を思い出した。まあ母ならやりかねない。

父が亡くなってから引っ越した団地のベランダいっぱいに、父との思い出の植木や花を所狭しと育て続ける母。狭い台所から何度も何度もジョウロで水を運び、花に水やりするその姿を思い出す。花が咲いたと言っては喜び、背丈が大きくなったと言っては自慢してたっけ。それが今では敷地内共有スペースにまで拡大し花を植えているという。そういえば小学生の頃だったか、母はいけばなも習って熱中してたっけ。玄関に花をいけていた姿や丸や四角の剣山、ふしぎな形の花瓶があったのを、母の生け花が出品されてた展覧会に母の友人とその子どもたちで揃って観にいったことを思い出した。そして、やっぱり母は動物も好きだった。いろんな動物も飼ったなぁ。いつもいつも話しかけ、いつの間にか芸を仕込んでいたな(笑)


私がいきものに想いを寄せるのは母譲りだったのか!(いまさらか!)


3月岡山に避難する際、車に乗り切らなくて葉先をばっさりと切った植物からはもう新しい葉っぱが出てきている。

お外練習中のニャンコと一緒に



今度住む先ではこの植物を地面に移植したいなぁと思った。


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1 коментар


sonoda-s
13 черв. 2020 р.

すてきな話をありがとう。(^.^)

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